堪忍は無事長久の基2023年07月20日 00時00分00秒

*また昔の投稿の再掲ですが、加筆訂正を加えた上で、改めて再掲します。

 私は実はとても怒りっぽい人間なのです。
 時に、怒りの感情が発作の様に荒れ狂い、制御できなくなりそうな事もあります。
 このままではいつか身を滅ぼすだろうと思い、武術による精神修養等を考えた事もありましたが、それも性に合わないと思ったので、もっと簡単な事から始めました。

 毎朝、徳川家康公の遺訓を唱えるのです。

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。

 一行づつ、しっかり心に言い聞かせるつもりで唱えるのです。私の場合は特に『堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え』の行を念入りに、自分に言い聞かせます。

 怒りの感情に支配された状態で物事を考えたり行動してはいけない。ならぬ堪忍するが堪忍・・・。堪忍できない程の堪忍こそ、本当の堪忍である。
・・と家康公は教えています。

 この遺訓に救われた事が何度かありました。

 ある時、どうにも腹に据えかねる事があり、この怒りは正当なものでもある為、職務上の権限を用いて対象者に対して正当な範囲での罰を与える事を考えました。但し、即時には行動せず、さらに熟考する時間を設けるべく、翌日まで対応を差し控えました。
 ・・しかし、朝になっても怒りは静まりません。野に放った火が広がって行く様に、怒りの対象はどんどん広範囲に及び、あらゆる事への不満が火を噴き始めました。
 こういう時は日頃の殊勝な日課が煩わしく、手を合わせる気になどならないのです。それでも、ここに救いがあるような、かすかな予感に促されて、半ば渋々ながら、とりあえず手を合わせ、心の中で遺訓を唱えました。

 ほんの数秒で、心の中の平原一杯に広がった怒りの炎は消え去りました。

 『堪忍・・』の教えで自分がやろうとしていた事の間違いを悟り、『己を責めて人を責むるな』の行では、事の原因を周到に取り除いておかなかった自分に対する反省を思いました。

 結果、その日も、静かな気持ちで、いつもの様に仕事に取り組む事が出来たのです。

 抹香臭い事を書きましたが、若い頃には無理だっただろうこうした体験ができるのも、ある程度の年齢を重ねて来たからだと思います。

 昔の人達が作り出した「神仏」という観念は本来、こういうふうに、人を救う為にあるのでしょう。
 最後に毒を吐いて恐縮ですが(笑)・・お布施を強要したり、選挙活動に利用したり、私服を肥やしたりする為でない事だけは・・・確かです・よね?

初出:2003年11月19日

リチャード・バック2023年06月09日 00時00分00秒

 またヘッセ関連のお話ですが・・
 ヘルマン・ヘッセ『ガラス玉演技』を読み返していて、ふと思った事がありました。
 米国の作家リチャード・バックの有名な作品『カモメのジョナサン』は、ヘッセ『ガラス玉演技』の童話風リメイクだったのではないか・・と。
 それに関して調べてもいませんし、何の確信もありませんが、ふと、そのように思ったのです。
 リチャード・バックの青年期には、米国の、特に反社会的自由思想を信奉する若者、いわゆるヒッピームーブメントに関わった人々の間でヘッセが熱狂的に読まれ支持されました。
 ヘルマン・ヘッセ『ガラス玉演技』と、リチャード・バック『カモメのジョナサン』。この2つの作品を同列に論じる様な事はしたくないのですが、私には非常に判り易いと思える共通点があるように思うのです。
・俗世と隔絶された場所に極めて高い精神性を追求する共同体があり、そこに於いて非常に優れた指導者となる者の人生を描く物語
・女性が(主要な役割としては)全く出てこない
・精神的完成に近付いた者は、その状態を表す表現として「光り輝く」
 先に、同列に論じる様な事はしたくない、と書きましたが、それは、私がリチャード・バックを好きではないからです。
 『カモメのジョナサン』と『イリュージョン』を読みました。
 作者がどのような思想を信奉しているかは何となく解りますし、その思想には、私の愛するヘッセ文学の精神性にも通ずる、美しく尊い永遠なるものへの憧憬が含まれているという事も感じ取れます。
 しかし、リチャード・バックの作品からは、カルト宗教団体のような、ある種の「いかがわしさ」が感じられてなりません。
 『カモメのジョナサン』の訳者 五木寛之は、解説でこの作品を批判的に評しています。
 その解説に若い頃の私は反発を感じました。が、その頃よりは物事を多面的に考えられる様になった現在、訳者の批評には一々頷けるように思うのです。

*初出:2003.11.13(加筆訂正して再掲)
https://kato-masaharu.asablo.jp/blog/2003/11/13/5633573

時間は実在しない2023年06月07日 00時00分00秒

 ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』の物語終盤で、シッダールタが旧友ゴーヴィンダに「時間は実在しない」と教え諭すのですが、20代の頃はそれが理解出来なくて、とてももどかしい思いをしました。
 もちろん今でも完全に解ったわけではないですが、そこそこ年齢を重ねると、自分なりに納得のいく解釈ができるようになる・・なった・・んじゃないかな・・と思います。

 人は、今現在を認識する事しかできません。
 過去や未来という概念が存在するだけで、過去や未来を実感することなどできないのです。
 誰にとっても「今、此処、私」以外はありえないのですから、我々・・昭和半ばに生まれた人間にとってはやや浅薄に感じる『今を大切にしたい』という考え方は、決して(ええ、決して・・)間違っていないと思います。

 ただし「今、此処、私」だけに意識の焦点を合わせているのであれば、それは我侭な子供じみた単なる刹那主義にすぎません。

 何時に於ける自分も
 何処に有っての自分も
 誰にとっての今も・・

 ・・同じ様に大切なのですから「今、此処、私」と同時に「何時でも、何処でも、誰でも」という普遍性を合わせ持った考え方でなければならないと思うのです。

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約20年前に書いた文章を加筆訂正して再掲しました。
『「今を大切に」は悪くはないけど 』
https://kato-masaharu.asablo.jp/blog/2003/01/20/5633835

10年前の日記より2021年07月16日 15時16分47秒


・・今も同じです。

『週に一度、礼拝の時間』
http://kato-masaharu.asablo.jp/blog/2011/06/22/5922972

過去に書いたもの再掲載2019年08月31日 14時22分29秒

2007年8月6日の日記に、こんな事を書いてますね。
今も考えは変わりません。

====== 2007年8月6日の日記を再掲載 =======

録音が流行るのは良い事だと思います

以前と違い、今の私はリズムループを利用した音楽制作も、それはそれで良いと思っています。
と言うのも、こんな風に変遷してきているよう気がするから、ですが・・。

 その昔・・MIDIによる高度なシンセサイザー制御技術が発達
    ↓   ↓   ↓   ↓
 初心者にも簡単、お手軽DTMの普及
    ↓   ↓   ↓   ↓
 質の悪い作品の蔓延から、MIDIという技術自体に対して " 誤解に依る " 低評価が広まる
    ↓   ↓   ↓   ↓
 DigitalAudioの発達により、生演奏の「切り貼り」が容易になる
    ↓   ↓   ↓   ↓
 人間の演奏に依る自然な演奏表現やグルーブを大切に考える人が増える
    ↓   ↓   ↓   ↓
 しかし、所詮「他人の演奏の断片」ばかりを、どう使った所で・・・
    ↓   ↓   ↓   ↓
 やはり生の演奏の記録、それを元にした作品こそ、創作と言えるのではないか・・
    ↓   ↓   ↓   ↓
 「よし、録音を始めよう!」

と、そういう人が増えていると思います。
良い事ではないでしょうか。

そしてこれからは、シンセサイザープログラミング(広義の)が、楽器演奏の代用ではなく、対立するものでもなく、単に「表現の道具」に過ぎないという事を、普通に、当たり前に、捉えていってほしいものです。
さて・・
今日もちょっとした教材作りでリズムループを利用してみましたが・・・
ま、他人が作った出来合いのリズムループサンプルをどう弄くった所で・・・個別サンプルをMIDIデータで精密に制御できる者にとっては、所詮・・・・
・・おおっっ・・と・・(笑)

====== 2007年8月6日の日記を再掲載 =======

Quartz Composer2018年01月19日 13時13分04秒

同志社女子大学 情報メディア学科の学生さんへ。
今日の授業に関係のある記事は、ウインドウ左側、カテゴリ一覧の「映像の制御」にまとめてあります。
http://kato-masaharu.asablo.jp/blog/cat/qc/

10年前の今日、ブログに書いた事2017年10月15日 15時07分25秒



『後期開始2週目 』
http://kato-masaharu.asablo.jp/blog/2007/10/15/

*以下、一部を転載

・・・私の授業で皆さんにお教えする「コンピュータを用いた音楽制作技術」の、その最大の利点は「音声や制御信号の視覚化」及び「時間軸上の制約からの解放」です。従来は理解が困難であった事柄も、容易に視覚的イメージで掴む事ができ、その結果「実際の演奏では不可能な音楽表現が可能になる」という事。この点を特に忘れないで下さい。

DAWは単なる録音機材ではありません。
シンセサイザーは単なる楽器の代用品ではないのです。

長い音楽の歴史に於いて初めて、私達はとんでもないものを手に入れました。これを使いこなしていきましょう。使いこなす為に、技術と知識を身に付けましょう。

音楽に抽象的な表現はつきものです。が、私は抽象的な言葉を用いません。音という形のないものを扱う教育現場であるからこそ、その過程に於いて全ては明確に論理立てられ、説明されるべきと考えるからです。

自分も似たような事を書いたっけ・・2017年06月14日 12時53分57秒

人気サイト「ほぼ日刊イトイ新聞」のトップページに「今日のダーリン」という毎日更新されるエッセイがあります。

*バックナンバーは公開していないとの事。この人のこういうところは好きだな・・。
http://www.1101.com/archive_darling/

今日、2017年6月14日の「今日のダーリン」を読んで、2年前に自分が日記に書いた事を思い出したので、再度公開してみます。

 == 以下、2015.4.19 の日記より ==

例えば、何かの資格を取得したいのならば、勉強すれば良いだけですし、肥満を解消したければ、食生活を改善すると同時に、有酸素運動を適切に行えば良いだけです。他にも色々ありますが、ある事を達成する為には何を行えば良いか、はっきりと判っている場合は、単にそれを行うだけですから簡単です。(意識的行動を阻害するような障害を抱えているわけでもないのに「いや簡単ではない!努力する事自体が難しいじゃないか!」などと言う人は論外という事にして(笑)あ、それと、たまに見かける「努力せずに楽して資格を取得しました!」「好きなだけ食べて何の苦労も無く10kg痩せました!」とかの宣伝文句を信じるような人も無視! w )

さてしかし、ある状況を作るのに、どんな努力が必要なのかを自分で見つけなければならず、何処からも誰からも教えを受けられない場合は、簡単ではありません。
何年もの間、成果を得られず、不本意な状況に耐えながら、それでも諦めずに続けてゆくともなれば、何よりも「強い心」が必要です。
決して怠けてなどおらず、常に内容を検証しつつ努力を続けていれば、自信を維持出来そうなものなのですが、面倒な事に心というものは「不安」を自動生成してきます。
生存の為に、常に危険に対処出来るよう肉体に準備させるために、不安の種を探し、増幅し、意識の表層に持ち上げて注意を促すのは、心の大事な仕事の一つですから、まあ仕方無いでしょう。
でも、こいつをあまりマトモに相手にしていると、この「不安」という毒のせいで、最悪の場合、殺されます。
この国では、マスメディアが、毒の増殖を爆発的に促すものばかり大量に垂れ流す為、毎年3万人以上が、そういう不幸な死に方に見舞われているようです。

強い心・・精神力を鍛える方法は色々あるのでしょうし、私はその点に関して初心者ですが、私が自分で掴んだ(というか、実は副産物だったのですが)精神の鍛錬法の内、特に気に入っているものの一つが「早朝に走る事」だったわけです。
朝起きてすぐ、約8kmを1時間以上かけてゆっくり走り、シャワーを浴びてサッパリして、一日が始る・・。
たった、これだけの事で、心が生み出す毒は消えます。
ついでに・・体が溜め込もうとした脂肪も消えてくれたので、高校生の頃の締まった体型を取り戻せたのは、やはり嬉しいですな(笑)

14年前の日記より2017年05月31日 00時00分00秒

14年前の日記を読んでみて・・。
この頃と今と、考え方は同じです。
若干の変化としては、移動中の緊急連絡用途限定で Softbank Simplestyle ZTE 301Z を持ち歩いている事くらいですか。
進歩の無い人間です。
よく言えばブレが無い・・と、言ってもらえますかね(笑)

以下、他所のサイトに書いた、2003年5月10日の日記を(一部加筆訂正の上)再掲します。

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2003.5.10:興味がないもの

私は結構極端な人間なので、興味のある事柄には徹底的に取り組みますが、興味がなければ徹底してこだわりません。例えば、自分のサイトを上手にデザインするという事には全く興味がないので、長い間作らずにいたのですが、仕事上の新しい出会いがあった時にはプロフィールの提示を求められる事があるので、これを作りました。
http://www.asahi-net.or.jp/~br2m-ktu/
不特定多数の人に見てもらうつもりは全くなかったので、これまでどこからもLinkしていませんでした。自称「世界一無愛想なサイト」ですが、業務内容の紹介として必要な情報は全て含まれています。
ゲームにも興味がありません。やったことがなかったので3Dゲームの映像がどんなにスゴイか最近まで知りませんでした。知人が私のPowerBookでゲームのデモ版を見せてくれた時は本当に仰天したものです。名前は忘れましたが、銃を構えた凄いプロポーションの女性が洞窟等の探険をするゲームでした。凄い事はわかりましたが、でも興味は持てませんでした。
前にも書きましたが、携帯端末にも興味がなく、必要もありません。
自動車も苦手です。運転免許は持っていますし、20代の頃には配達のアルバイトもしていたのですが、自動車を運転するという事がどうしても好きになれませんでした。
他にも、家や分譲マンション等の不動産、利殖、子孫、服飾、etc...
なんだかネガティブな文章のようですが、所有を減らして状況をシンプルにしておく事こそ、スッキリと気持ちの良い人生を送るコツだと思っています。

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以上、他所のサイトに書いた、2003年5月10日の日記を(一部加筆訂正の上)再掲しました。

10年前の日記より2016年09月24日 16時13分31秒

10年前、私はスリップウェアというイギリスの古いスタイルの陶器に心を占領されてしまい、日本民芸館に何度も通ったり資料を漁ったり、ブログの内容もそれに関連した事ばかり書いていました。今は落ち着いていますが、でもやはり大好きで、似た手法の陶器を見るだけでも思わず反応してしまいます。

以下、十年前の9/24の日記より
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『ネクタイをした陶芸家』

 バーナード・リーチは、陶芸家の地位向上をいつも念頭に置いて仕事をしていたそうです。
 たとえば、作業中にも常にネクタイ着用だった、という話を読みました。
 土と火を扱う、陶芸家の仕事場で、です。
 特定の服装の形式がどうこうという話ではなく
 「心意気」というものを、常に誰の目にも見えるように示していた、という事が
 私に尊敬の気持ちを起こさせます。
 時代と、情勢と、業界によって、それがスーツだったり、Tシャツだったり、色々でしょう。
 こういう事を軽く考えてはいけないと、今は解る気がします。