過去の日記より『手で書くという事』 ― 2024年06月15日 11時09分58秒
====== 過去の日記より ======
2003年1月7日
『手で書くという事』
コンピュータで全てを行うようになると、簡単な漢字も書けなくなってきた事に気付いて愕然とした・・そんな経験はありませんか?
コンピュータで文章を作ると前後の入れ替えや修正が簡単なので、文章の構成自体は上手になります。
が、「書く能力」が退化してしまうのです。
それは「考える能力の一部」が退化したという事でもあります。
私の場合、何か対策を考えねばと思っていた所で講師の仕事を始めたので、自然に解決しました。
授業では板書説明を沢山するからです。
書く事は大切です。
授業では「後で書く時間をあげるから、今は聞きながら理解する事に努めて下さい」と断って、板書説明をし、全員が完全に理解した事を確認してから、ゆっくりノートを取らせます。
説明を聞いて理解した内容をもう一度「手で書く」という作業を通して脳に定着させるわけです。
その上で、資料として渡すべきものは、音楽学校ではプリントアウトして配布し、大学ではPDFなどにしてサーバーに上げておき、各自ダウンロードさせます。
板書の仕方も毎回改良していくのですが、書く内容や説明の順序、その変更についてのメモなどは、これはコンピュータ内にきちんと保存していきます。
コンピュータという道具は「思考を助け増幅させる」ように使うべきで、決してそれによって精神活動が退化するような事があってはいけません。
過去の日記より『精神はやがてシリコンに宿る』 ― 2024年06月07日 15時11分24秒
過去の日記より『精神はやがてシリコンに宿る』
====== 過去の日記より ======
2002年12月14日
『精神はやがてシリコンに宿る』
10代の頃、まともな科学雑誌ではない「トンデモ本」の類いも結構好きで、よく読んでいました。
そういった本の中にあった、今でも楽しく思い出す記事の話です。
その記事では
人類が初めて宇宙へ行くようになった20世紀とは、人類史上どころか生物の歴史から見て「2回目の大きなターニングポイントである」と言う事を強調していました。
1回目は、海にしか存在しなかった生物が、始めて陸に上がった時期。
陸に上がった最初の魚は、昔読んだ図鑑ではユーステノプテロンとかいう名前だったけれど、ずっと後になって読んだロバートジャストロウ博士の「コスモス三部作」の内のたぶん「もう一つの宇宙」ではクロソプテリジャンとかいう名前になっていたっけ・・・結局だれも見た事無いんだから名前なんかどうでも良いか(笑)
2回目は、地球上にしか存在しなかった生物が、始めて宇宙空間に出た時・・・、つまり、ちょっと前の現代。
さて、しかし人類の身体はそのままでは宇宙空間には不向きである(そりゃそうだ・・)。
宇宙はちょっとばかりの進化による適応でなんとかなるような場所とは訳が違う。
気圧も温度も放射線も、ものともしないで高い精神活動と運動性を保てる、とことん頑丈な生物に人類が進化するか、作るかしなければ、宇宙という新しいフロンティアに飛躍する事は不可能であるが・・・そういう「生物の後を継ぐ存在」を、人類はもう作り始めているでは無いか!(と、こう繋ぐわけです)
「コンピュータこそがその新しい存在である。人類のこれまでの知識、歴史、技術、全てをシリコンのチップという新しい脳に記録し、自己修復可能で半永久的に機能する身体を持った未来の生命を、我々は今育てているのだ・・・」
これを読んだ雅春少年は「おおそうだったのか!そんな滅多に無い凄い機会に生まれ合わせたのか!」と感動したのでした。
====== 過去の日記より ======
2002年12月14日
『精神はやがてシリコンに宿る』
10代の頃、まともな科学雑誌ではない「トンデモ本」の類いも結構好きで、よく読んでいました。
そういった本の中にあった、今でも楽しく思い出す記事の話です。
その記事では
人類が初めて宇宙へ行くようになった20世紀とは、人類史上どころか生物の歴史から見て「2回目の大きなターニングポイントである」と言う事を強調していました。
1回目は、海にしか存在しなかった生物が、始めて陸に上がった時期。
陸に上がった最初の魚は、昔読んだ図鑑ではユーステノプテロンとかいう名前だったけれど、ずっと後になって読んだロバートジャストロウ博士の「コスモス三部作」の内のたぶん「もう一つの宇宙」ではクロソプテリジャンとかいう名前になっていたっけ・・・結局だれも見た事無いんだから名前なんかどうでも良いか(笑)
2回目は、地球上にしか存在しなかった生物が、始めて宇宙空間に出た時・・・、つまり、ちょっと前の現代。
さて、しかし人類の身体はそのままでは宇宙空間には不向きである(そりゃそうだ・・)。
宇宙はちょっとばかりの進化による適応でなんとかなるような場所とは訳が違う。
気圧も温度も放射線も、ものともしないで高い精神活動と運動性を保てる、とことん頑丈な生物に人類が進化するか、作るかしなければ、宇宙という新しいフロンティアに飛躍する事は不可能であるが・・・そういう「生物の後を継ぐ存在」を、人類はもう作り始めているでは無いか!(と、こう繋ぐわけです)
「コンピュータこそがその新しい存在である。人類のこれまでの知識、歴史、技術、全てをシリコンのチップという新しい脳に記録し、自己修復可能で半永久的に機能する身体を持った未来の生命を、我々は今育てているのだ・・・」
これを読んだ雅春少年は「おおそうだったのか!そんな滅多に無い凄い機会に生まれ合わせたのか!」と感動したのでした。
過去の日記より『例2:MIDI&録音機器』 ― 2024年06月04日 15時15分42秒
====== 過去の日記より ======
2002年12月12日
御存じのように最近のコンピュータの性能(処理速度)はとんでもないレベルです。
ほんの数年前、映像に音楽を付ける仕事をするには様々な機材が必要でした。
業務用ビデオ再生機、モニタ、信号同期用機器、何台ものシンセサイザー、それらをまとめるミキサー、レコーダー、残響などの効果を作る機材、信号分配器、たくさんのケーブル類、等々、部屋一杯の機材に囲まれて作業しなければなりませんでした。
が、今ではこれらが全てソフトウェアのみで構築可能です。
ケーブルを繋いだり、つまみを調節したりといった事も全て画面の中で行います。
接点不良や電磁波ノイズの混入といったくだらない(ほんっとにくだらない)トラブルからは永遠に解放されました。
20年前(注:2024年現在からは42年前)、私が18歳の頃には想像すら出来なかった事ですから、やはり現代は結構な「未来社会」なのだと思います。
2002年12月12日
御存じのように最近のコンピュータの性能(処理速度)はとんでもないレベルです。
ほんの数年前、映像に音楽を付ける仕事をするには様々な機材が必要でした。
業務用ビデオ再生機、モニタ、信号同期用機器、何台ものシンセサイザー、それらをまとめるミキサー、レコーダー、残響などの効果を作る機材、信号分配器、たくさんのケーブル類、等々、部屋一杯の機材に囲まれて作業しなければなりませんでした。
が、今ではこれらが全てソフトウェアのみで構築可能です。
ケーブルを繋いだり、つまみを調節したりといった事も全て画面の中で行います。
接点不良や電磁波ノイズの混入といったくだらない(ほんっとにくだらない)トラブルからは永遠に解放されました。
20年前(注:2024年現在からは42年前)、私が18歳の頃には想像すら出来なかった事ですから、やはり現代は結構な「未来社会」なのだと思います。
過去の日記より 『例1:ギター関係』 ― 2024年06月03日 00時00分00秒
====== 過去の日記より ======
2002年12月11日
私のギターは普通の意味でのエレクトリックギターではありません。
普通のピックアップは付いていないので、ギターアンプに接続して使用する事は出来ません。
言わば弦を張ったギター型コントローラーです。
弦振動は専用のピックアップGK-2A(ボディ埋め込み加工とカスタム回路改造をしています)により取り込まれ、13ピンケーブルで VG-88 本体に送られます。
ADコンバータでデジタル情報化された弦振動は
・どの様なボディを持つギターで
・ピックアップはブリッジから何mmの距離にあって
・角度はどの様に付けられた
・どういった種類のピックアップで
・どの様なアンプに接続され
・どの様なセッティングで
・どの様なスピーカーから出力し
・どの様な距離と位置でマイキングした音を
・どの様にエフェクト処理したのか
全て VG-88 内部で計算によって作られます。
物理現象を計算によって再現するこの技術はフィジカルモデリング(物理モデル)と呼ばれ
Roland社がこの技術に於いてはトップと言って良いでしょう。
最小限のハードウェア1つだけと、入力装置としてのギター(コントローラ)だけで、私は何本ものギターとアンプとスピーカー、エフェクトとそれを鳴らす空間までを一緒にかかえて何処へでも移動出来るわけです。
「Hardware=物」という「制約」から解放されています。
といっても、「物としての楽器」を愛する心を否定するわけではありません。
それどころか今でも多くの名器達に強い憧れを持っています。(清水氏がうらやましいです)が、理念を唱えるだけでなく、実行してみせなければと思い、あえてギターからは普通のピックアップ(EMG)を取り去る事にしました。
学生には視覚的にインパクトを与えて、十分な興味を持たせてから説明するのが良い様です。
あらためて言うべき事が、もう無いように思うので・・ ― 2024年06月02日 12時32分47秒
・・で、これからしばらくは、限定公開だったものも含め、20年以上前に公開した文章のアレコレを再掲載する事にします。
言いたい事、書いておきたい事の主要部分は、その頃も今も殆ど変わってないと思いましたので・・。
====== 過去の日記より ======
2002年12月10日
私はデジタルテクノロジーが好きです。
アナログの良さも知っていますし、デジタルによって損なわれるものが少なく無い事も承知していますが、その上で、自分が信奉する技術として、また、学生達を教える上での基本理念として、デジタルテクノロジーの優位性という事をいつも強調しています。
デジタルテクノロジーから得られる最大の恩恵は「Hardware=物」という「制約」からの解放であると思っています。
音や映像等、実体が無く単に「情報」として扱えるものは、すべて0か1のデジタル情報に変換出来ます。
それを扱うには、最低限のハードウェアであるコンピュータさえあればよく、以前は欠かす事の出来なかった高価な専用機材や周辺機器、さらに設置環境すらもソフトウェアによって仮想空間上に再現する事が可能になりました。
実際に私が使用している機材を例に、何回かに分けて、もう少し詳しくお話する事にします。
言いたい事、書いておきたい事の主要部分は、その頃も今も殆ど変わってないと思いましたので・・。
====== 過去の日記より ======
2002年12月10日
私はデジタルテクノロジーが好きです。
アナログの良さも知っていますし、デジタルによって損なわれるものが少なく無い事も承知していますが、その上で、自分が信奉する技術として、また、学生達を教える上での基本理念として、デジタルテクノロジーの優位性という事をいつも強調しています。
デジタルテクノロジーから得られる最大の恩恵は「Hardware=物」という「制約」からの解放であると思っています。
音や映像等、実体が無く単に「情報」として扱えるものは、すべて0か1のデジタル情報に変換出来ます。
それを扱うには、最低限のハードウェアであるコンピュータさえあればよく、以前は欠かす事の出来なかった高価な専用機材や周辺機器、さらに設置環境すらもソフトウェアによって仮想空間上に再現する事が可能になりました。
実際に私が使用している機材を例に、何回かに分けて、もう少し詳しくお話する事にします。
堪忍は無事長久の基 ― 2023年07月20日 00時00分00秒
*また昔の投稿の再掲ですが、加筆訂正を加えた上で、改めて再掲します。
私は実はとても怒りっぽい人間なのです。
時に、怒りの感情が発作の様に荒れ狂い、制御できなくなりそうな事もあります。
このままではいつか身を滅ぼすだろうと思い、武術による精神修養等を考えた事もありましたが、それも性に合わないと思ったので、もっと簡単な事から始めました。
毎朝、徳川家康公の遺訓を唱えるのです。
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。
一行づつ、しっかり心に言い聞かせるつもりで唱えるのです。私の場合は特に『堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え』の行を念入りに、自分に言い聞かせます。
怒りの感情に支配された状態で物事を考えたり行動してはいけない。ならぬ堪忍するが堪忍・・・。堪忍できない程の堪忍こそ、本当の堪忍である。
・・と家康公は教えています。
この遺訓に救われた事が何度かありました。
ある時、どうにも腹に据えかねる事があり、この怒りは正当なものでもある為、職務上の権限を用いて対象者に対して正当な範囲での罰を与える事を考えました。但し、即時には行動せず、さらに熟考する時間を設けるべく、翌日まで対応を差し控えました。
・・しかし、朝になっても怒りは静まりません。野に放った火が広がって行く様に、怒りの対象はどんどん広範囲に及び、あらゆる事への不満が火を噴き始めました。
こういう時は日頃の殊勝な日課が煩わしく、手を合わせる気になどならないのです。それでも、ここに救いがあるような、かすかな予感に促されて、半ば渋々ながら、とりあえず手を合わせ、心の中で遺訓を唱えました。
ほんの数秒で、心の中の平原一杯に広がった怒りの炎は消え去りました。
『堪忍・・』の教えで自分がやろうとしていた事の間違いを悟り、『己を責めて人を責むるな』の行では、事の原因を周到に取り除いておかなかった自分に対する反省を思いました。
結果、その日も、静かな気持ちで、いつもの様に仕事に取り組む事が出来たのです。
抹香臭い事を書きましたが、若い頃には無理だっただろうこうした体験ができるのも、ある程度の年齢を重ねて来たからだと思います。
昔の人達が作り出した「神仏」という観念は本来、こういうふうに、人を救う為にあるのでしょう。
最後に毒を吐いて恐縮ですが(笑)・・お布施を強要したり、選挙活動に利用したり、私服を肥やしたりする為でない事だけは・・・確かです・よね?
初出:2003年11月19日
私は実はとても怒りっぽい人間なのです。
時に、怒りの感情が発作の様に荒れ狂い、制御できなくなりそうな事もあります。
このままではいつか身を滅ぼすだろうと思い、武術による精神修養等を考えた事もありましたが、それも性に合わないと思ったので、もっと簡単な事から始めました。
毎朝、徳川家康公の遺訓を唱えるのです。
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。
一行づつ、しっかり心に言い聞かせるつもりで唱えるのです。私の場合は特に『堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え』の行を念入りに、自分に言い聞かせます。
怒りの感情に支配された状態で物事を考えたり行動してはいけない。ならぬ堪忍するが堪忍・・・。堪忍できない程の堪忍こそ、本当の堪忍である。
・・と家康公は教えています。
この遺訓に救われた事が何度かありました。
ある時、どうにも腹に据えかねる事があり、この怒りは正当なものでもある為、職務上の権限を用いて対象者に対して正当な範囲での罰を与える事を考えました。但し、即時には行動せず、さらに熟考する時間を設けるべく、翌日まで対応を差し控えました。
・・しかし、朝になっても怒りは静まりません。野に放った火が広がって行く様に、怒りの対象はどんどん広範囲に及び、あらゆる事への不満が火を噴き始めました。
こういう時は日頃の殊勝な日課が煩わしく、手を合わせる気になどならないのです。それでも、ここに救いがあるような、かすかな予感に促されて、半ば渋々ながら、とりあえず手を合わせ、心の中で遺訓を唱えました。
ほんの数秒で、心の中の平原一杯に広がった怒りの炎は消え去りました。
『堪忍・・』の教えで自分がやろうとしていた事の間違いを悟り、『己を責めて人を責むるな』の行では、事の原因を周到に取り除いておかなかった自分に対する反省を思いました。
結果、その日も、静かな気持ちで、いつもの様に仕事に取り組む事が出来たのです。
抹香臭い事を書きましたが、若い頃には無理だっただろうこうした体験ができるのも、ある程度の年齢を重ねて来たからだと思います。
昔の人達が作り出した「神仏」という観念は本来、こういうふうに、人を救う為にあるのでしょう。
最後に毒を吐いて恐縮ですが(笑)・・お布施を強要したり、選挙活動に利用したり、私服を肥やしたりする為でない事だけは・・・確かです・よね?
初出:2003年11月19日
リチャード・バック ― 2023年06月09日 00時00分00秒
またヘッセ関連のお話ですが・・
ヘルマン・ヘッセ『ガラス玉演技』を読み返していて、ふと思った事がありました。
米国の作家リチャード・バックの有名な作品『カモメのジョナサン』は、ヘッセ『ガラス玉演技』の童話風リメイクだったのではないか・・と。
それに関して調べてもいませんし、何の確信もありませんが、ふと、そのように思ったのです。
リチャード・バックの青年期には、米国の、特に反社会的自由思想を信奉する若者、いわゆるヒッピームーブメントに関わった人々の間でヘッセが熱狂的に読まれ支持されました。
ヘルマン・ヘッセ『ガラス玉演技』と、リチャード・バック『カモメのジョナサン』。この2つの作品を同列に論じる様な事はしたくないのですが、私には非常に判り易いと思える共通点があるように思うのです。
・俗世と隔絶された場所に極めて高い精神性を追求する共同体があり、そこに於いて非常に優れた指導者となる者の人生を描く物語
・女性が(主要な役割としては)全く出てこない
・精神的完成に近付いた者は、その状態を表す表現として「光り輝く」
先に、同列に論じる様な事はしたくない、と書きましたが、それは、私がリチャード・バックを好きではないからです。
『カモメのジョナサン』と『イリュージョン』を読みました。
作者がどのような思想を信奉しているかは何となく解りますし、その思想には、私の愛するヘッセ文学の精神性にも通ずる、美しく尊い永遠なるものへの憧憬が含まれているという事も感じ取れます。
しかし、リチャード・バックの作品からは、カルト宗教団体のような、ある種の「いかがわしさ」が感じられてなりません。
『カモメのジョナサン』の訳者 五木寛之は、解説でこの作品を批判的に評しています。
その解説に若い頃の私は反発を感じました。が、その頃よりは物事を多面的に考えられる様になった現在、訳者の批評には一々頷けるように思うのです。
*初出:2003.11.13(加筆訂正して再掲)
https://kato-masaharu.asablo.jp/blog/2003/11/13/5633573
ヘルマン・ヘッセ『ガラス玉演技』を読み返していて、ふと思った事がありました。
米国の作家リチャード・バックの有名な作品『カモメのジョナサン』は、ヘッセ『ガラス玉演技』の童話風リメイクだったのではないか・・と。
それに関して調べてもいませんし、何の確信もありませんが、ふと、そのように思ったのです。
リチャード・バックの青年期には、米国の、特に反社会的自由思想を信奉する若者、いわゆるヒッピームーブメントに関わった人々の間でヘッセが熱狂的に読まれ支持されました。
ヘルマン・ヘッセ『ガラス玉演技』と、リチャード・バック『カモメのジョナサン』。この2つの作品を同列に論じる様な事はしたくないのですが、私には非常に判り易いと思える共通点があるように思うのです。
・俗世と隔絶された場所に極めて高い精神性を追求する共同体があり、そこに於いて非常に優れた指導者となる者の人生を描く物語
・女性が(主要な役割としては)全く出てこない
・精神的完成に近付いた者は、その状態を表す表現として「光り輝く」
先に、同列に論じる様な事はしたくない、と書きましたが、それは、私がリチャード・バックを好きではないからです。
『カモメのジョナサン』と『イリュージョン』を読みました。
作者がどのような思想を信奉しているかは何となく解りますし、その思想には、私の愛するヘッセ文学の精神性にも通ずる、美しく尊い永遠なるものへの憧憬が含まれているという事も感じ取れます。
しかし、リチャード・バックの作品からは、カルト宗教団体のような、ある種の「いかがわしさ」が感じられてなりません。
『カモメのジョナサン』の訳者 五木寛之は、解説でこの作品を批判的に評しています。
その解説に若い頃の私は反発を感じました。が、その頃よりは物事を多面的に考えられる様になった現在、訳者の批評には一々頷けるように思うのです。
*初出:2003.11.13(加筆訂正して再掲)
https://kato-masaharu.asablo.jp/blog/2003/11/13/5633573
時間は実在しない ― 2023年06月07日 00時00分00秒
ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』の物語終盤で、シッダールタが旧友ゴーヴィンダに「時間は実在しない」と教え諭すのですが、20代の頃はそれが理解出来なくて、とてももどかしい思いをしました。
もちろん今でも完全に解ったわけではないですが、そこそこ年齢を重ねると、自分なりに納得のいく解釈ができるようになる・・なった・・んじゃないかな・・と思います。
人は、今現在を認識する事しかできません。
過去や未来という概念が存在するだけで、過去や未来を実感することなどできないのです。
誰にとっても「今、此処、私」以外はありえないのですから、我々・・昭和半ばに生まれた人間にとってはやや浅薄に感じる『今を大切にしたい』という考え方は、決して(ええ、決して・・)間違っていないと思います。
ただし「今、此処、私」だけに意識の焦点を合わせているのであれば、それは我侭な子供じみた単なる刹那主義にすぎません。
何時に於ける自分も
何処に有っての自分も
誰にとっての今も・・
・・同じ様に大切なのですから「今、此処、私」と同時に「何時でも、何処でも、誰でも」という普遍性を合わせ持った考え方でなければならないと思うのです。
==========
約20年前に書いた文章を加筆訂正して再掲しました。
『「今を大切に」は悪くはないけど 』
https://kato-masaharu.asablo.jp/blog/2003/01/20/5633835
もちろん今でも完全に解ったわけではないですが、そこそこ年齢を重ねると、自分なりに納得のいく解釈ができるようになる・・なった・・んじゃないかな・・と思います。
人は、今現在を認識する事しかできません。
過去や未来という概念が存在するだけで、過去や未来を実感することなどできないのです。
誰にとっても「今、此処、私」以外はありえないのですから、我々・・昭和半ばに生まれた人間にとってはやや浅薄に感じる『今を大切にしたい』という考え方は、決して(ええ、決して・・)間違っていないと思います。
ただし「今、此処、私」だけに意識の焦点を合わせているのであれば、それは我侭な子供じみた単なる刹那主義にすぎません。
何時に於ける自分も
何処に有っての自分も
誰にとっての今も・・
・・同じ様に大切なのですから「今、此処、私」と同時に「何時でも、何処でも、誰でも」という普遍性を合わせ持った考え方でなければならないと思うのです。
==========
約20年前に書いた文章を加筆訂正して再掲しました。
『「今を大切に」は悪くはないけど 』
https://kato-masaharu.asablo.jp/blog/2003/01/20/5633835
10年前の日記より ― 2021年07月16日 15時16分47秒
過去に書いたもの再掲載 ― 2019年08月31日 14時22分29秒
2007年8月6日の日記に、こんな事を書いてますね。
今も考えは変わりません。
====== 2007年8月6日の日記を再掲載 =======
録音が流行るのは良い事だと思います
以前と違い、今の私はリズムループを利用した音楽制作も、それはそれで良いと思っています。
と言うのも、こんな風に変遷してきているよう気がするから、ですが・・。
その昔・・MIDIによる高度なシンセサイザー制御技術が発達
↓ ↓ ↓ ↓
初心者にも簡単、お手軽DTMの普及
↓ ↓ ↓ ↓
質の悪い作品の蔓延から、MIDIという技術自体に対して " 誤解に依る " 低評価が広まる
↓ ↓ ↓ ↓
DigitalAudioの発達により、生演奏の「切り貼り」が容易になる
↓ ↓ ↓ ↓
人間の演奏に依る自然な演奏表現やグルーブを大切に考える人が増える
↓ ↓ ↓ ↓
しかし、所詮「他人の演奏の断片」ばかりを、どう使った所で・・・
↓ ↓ ↓ ↓
やはり生の演奏の記録、それを元にした作品こそ、創作と言えるのではないか・・
↓ ↓ ↓ ↓
「よし、録音を始めよう!」
と、そういう人が増えていると思います。
良い事ではないでしょうか。
そしてこれからは、シンセサイザープログラミング(広義の)が、楽器演奏の代用ではなく、対立するものでもなく、単に「表現の道具」に過ぎないという事を、普通に、当たり前に、捉えていってほしいものです。
さて・・
今日もちょっとした教材作りでリズムループを利用してみましたが・・・
ま、他人が作った出来合いのリズムループサンプルをどう弄くった所で・・・個別サンプルをMIDIデータで精密に制御できる者にとっては、所詮・・・・
・・おおっっ・・と・・(笑)
====== 2007年8月6日の日記を再掲載 =======
今も考えは変わりません。
====== 2007年8月6日の日記を再掲載 =======
録音が流行るのは良い事だと思います
以前と違い、今の私はリズムループを利用した音楽制作も、それはそれで良いと思っています。
と言うのも、こんな風に変遷してきているよう気がするから、ですが・・。
その昔・・MIDIによる高度なシンセサイザー制御技術が発達
↓ ↓ ↓ ↓
初心者にも簡単、お手軽DTMの普及
↓ ↓ ↓ ↓
質の悪い作品の蔓延から、MIDIという技術自体に対して " 誤解に依る " 低評価が広まる
↓ ↓ ↓ ↓
DigitalAudioの発達により、生演奏の「切り貼り」が容易になる
↓ ↓ ↓ ↓
人間の演奏に依る自然な演奏表現やグルーブを大切に考える人が増える
↓ ↓ ↓ ↓
しかし、所詮「他人の演奏の断片」ばかりを、どう使った所で・・・
↓ ↓ ↓ ↓
やはり生の演奏の記録、それを元にした作品こそ、創作と言えるのではないか・・
↓ ↓ ↓ ↓
「よし、録音を始めよう!」
と、そういう人が増えていると思います。
良い事ではないでしょうか。
そしてこれからは、シンセサイザープログラミング(広義の)が、楽器演奏の代用ではなく、対立するものでもなく、単に「表現の道具」に過ぎないという事を、普通に、当たり前に、捉えていってほしいものです。
さて・・
今日もちょっとした教材作りでリズムループを利用してみましたが・・・
ま、他人が作った出来合いのリズムループサンプルをどう弄くった所で・・・個別サンプルをMIDIデータで精密に制御できる者にとっては、所詮・・・・
・・おおっっ・・と・・(笑)
====== 2007年8月6日の日記を再掲載 =======